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たまゆらデザイン日記

289 ひらがなと漢字

「かんじは さいしょは かんたんな えのようなものでした。」
2学期になって漢字の勉強がはじまり、毎日少しずつ増えてきているようですが、1年生のこくごは、まずは「ひらがな」を正しく読み書きできることからのスタートでした。
ひらがなを誰が考案したのかについては依然謎だそうですが(空海説もありましたが)いつ公式に使用されるようになったのかは明確と言う事です。延喜5(905)年4月18日。ひらがなで書かれた公文書、古今和歌集完成。

   以→い
   呂→ろ
   波→は

というように、漢字が変化してひらがなが考案される以前は、万葉がなと言って漢字を日本の言葉に合わせて使用するということが行われていました。

   夜久毛多都→やくもたつ(八雲立つ)

現代の私たちが見るととっても変ですね。


以下、先日放送の「その時歴史が動いた」ひらがな革命〜国風文化を生んだ古今和歌集〜を元に、ひらがな誕生の裏にあったいきさつを大雑把に記録をしておきたいと思います。

当時、ひらがなは主に和歌に使用されていましたが、それはあくまでもプライベートなものとされ、公式の文書はすべて漢語で書かれていました。すべてのやり方を中国を手本にしていたのです。律令制の崩壊の危機、破綻寸前の国家財政に、抜本的な政治の改革が求められていた平安時代中期。当時官僚のトップだった菅原道真は、衰退しつつある唐を頼らずに日本独自の改革が必要と考えます。漢詩・漢文に熟達していた道真は、当然のごとく「かな」に何ら価値を認めていなかった。しかし律令制(唐のやり方)を無視するような政策は強引に写り、官僚たちの反感をかいます。そしてライバル藤原時平の攻略で突然の左遷。一方の時平は、幼少より藤原家の女たちのたしなみであった「かな」に親しんできた。国を変えていくには、まず官僚たちの漢文崇拝の意識を改革しなければならない。そこで「かな」に着目。紀貫之らに編纂を命じ、ひらがなを公式のものとするのでした。


   やまとうたは 人の心を種として よろずの言の葉とぞなれりける

古今和歌集の冒頭はこのようにはじまっています。漢字文化に対するかな文化の宣言と見てとれます。かなが公に認められたということで、以後、『源氏物語り』『枕草子』、寝殿造り、十二単・・・などの国風文化が花ひらきました。

そこからおよそ300年、鎌倉時代の随筆『方丈記』の頃には和漢混淆文が確立されます。漢字とかなが混じりあうことで、日本語はいっそう豊かな表現を獲得していきました。「漢」の道真、「かな」の時平、生前袂を分かった2人のライバルが日本語という言葉の中で永遠に手をたずさえるようになったのです。



# by tsukinoha | 2006-12-02 15:54 | 日本の伝統文化

288 いやいやえん

288 いやいやえん_d0009581_6172057.jpg
いやいやえん
中川李枝子
1962年
福音館書店



新しい書籍との出会いは新鮮な風をもたらせてくれますが、過去に読んだものを読み返すということは、さらに味わいに深みを出すもののような気がします。
そういった意味では、今自分が繰り返し読んで(あげて)いるのは絵本や童話かもしれません(笑)。いくつかの童話は自分自身が子どもの頃読んで好きだったものがあります。
『いやいやえん』もそのひとつ。しかしどうして好きだったか、私は子どもの頃の気持ちを忘れてしまいました。そのかわり、大人になって読んでみてはっとさせられることもあります。

まい日、おべんとうがおわると、ほしぐみは「じのほん」、ばらぐみは、「えのほん」をせんせいによんでもらいます。(本文2ページ)

ここでいうほしぐみは年長で、ばらぐみは年中、年少ということになっています。

えのほん・・・絵本はビジュアルを読むという視覚からの情報があることに対して、字の本というのは想像力が必要です。大きい組の子は経験数が増えた分だけ想像の幅が大きくなっていることがわかりますが、私たちがふだん本を読むという行為などで感じる気持ちの振幅そのものは“ビジュアル以前”なのだという気がしてきました。

字の本に秘められた想像の源泉がいかほど無限なものであるか。ビジュアルというのはいかに人の心理を固定化させてしまうか。これはふだんの仕事に反映させてみるてもとても納得させられるものがあります。ラフの段階では想像の幅に広がりがあるのに対して、ブラッシュアップしたものにはかなりイメージが定着してまっている。
人同士のやりとりではやはりその過程が重要です。


保育士だった頃の経験が、絵本や童話へとつながっていった中川李枝子さん。『いやいやえん』も『ぐりとぐら』も勤められていた保育園から生まれたお話だそうです。1935年生まれ。
トトロの『さんぽ』の作詞も中川さんです。



# by tsukinoha | 2006-12-01 06:19 |

287 本日のバタバタ

夕方5時。最寄駅まで来てくださった代理店の方に、明日掲載予定の新聞広告の入稿原稿一式お渡しして本日のノルマどうにか終了!ほんとに明日の朝刊に載るんだろうか???あさってのマチガイでは???

ギリギリだった。
昨日はこれから「さぁ打ち合わせ」という時に小学校から呼び出しがあり、「学校で吐いちゃいました」と連絡があったのでした。あせって段取りつけてお迎え。放課後(といってもすでに暗くなってるし・・・)保健室に先生が残っていてくださったのだった・・・(頭下げ)。

小児科へ行くと「流行ってますよ〜」と言われる。でも熱も出なくて調子悪くなかったら明日学校行っても大丈夫でしょうとのこと。そして・・・娘は一晩寝て奇跡的に(?)回復しました。学校も休みたくなかったし、児童館の囲碁大会にどうしても出たかったもよう。

今日午前中に製版入稿(印刷の入稿)しなければならない広告があったので、午前中は職場にいて午後は自宅作業にさせてもらおうという予定にしました。が、表記に関する修正がちょこちょこ入り、やってもやってもなかなか終了しない・・・(午前中って言ってたのに〜)。昼食を取る間もなく結局自宅に持ち帰り、最終作業を終えたのでありました。

子どもも大人も感染性胃腸炎が流行っているようです。
まずは、手洗い、うがいですね。気をつけましょう。


↓ナイチンゲール(一応・・・絵本の挿し絵を真似して描いた娘)
287 本日のバタバタ_d0009581_21264379.jpg




# by tsukinoha | 2006-11-29 21:27 | 随想

286 遥かなる約束

録画しておいた「美の巨人たち」の写真家・入江泰吉(生涯にわたって大和路を撮り続けた)も、とてもよかった〜のですが、今日は珍しくドラマの話題です。フジテレビ系・二夜連続のスペシャル番組。昨晩放送の2日目「遥かなる約束・50年の時を越えた運命の愛」。

1997年3月24日、52年ぶりに祖国の土を踏んだ蜂谷弥三郎さんは、妻の久子さんの待つ鳥取駅で50年振りの再会を果たしました。実話を元にしたドラマです。

終戦直後、家族と住む平壌の家から、スパイという身に覚えのない容疑で弥三郎さんはソ連兵に連行されました。断腸の思いで妻の久子さんは、まだ8ヶ月の娘・久美子さんを抱え日本に帰りました。
シベリアの強制収容所を出た後も、当局から帰国を許されず、常にKGBに監視されていた弥三郎さんですが、生きて日本に帰るために必死に日々を働いて過ごします。そして同じような境遇をもつロシア女性クラウディアさんとの出会い。二人はお互いの身の上を語り合いながら少しずつ惹かれていき、ともに暮らすようになりました。

ソ連崩壊後、監視が緩んだところ、思いがけず妻・久子さんと娘・久美子さんの消息を知ります。「他人の不幸の上に自分の幸福を築くことはできない」クラウディアさんは日本の家族のことを思い、弥三郎さんを日本に帰す決心をしました。しかし弥三郎さんは37年間連れ添ったクラウディアさんをひとり残して行けないと同意しません。それでも揺らぐ事ない決意のクラウディアさんに、ついに弥三郎さんは日本へ帰ることにしました。

50年も夫の帰りを信じて待ち続ける久子さんもすごいけれど、背中を押してくれたロシア女性のクラウディアさんの姿に胸をえぐられそうでした。BGMに「ひまわり」の主題歌(戦争によって引き裂かれた夫婦の悲劇を描いた反戦映画/1970年イタリア)が流れていましたが、これが本当にあった話だと思うと・・・。ドラマ観てこれほどに泣いたことはありません。いろいろ考えもさせられました。再放送の機会があったらおすすめしたい番組です。



# by tsukinoha | 2006-11-26 21:01 | シネマ&TV

285 はじめての七宝

昨夜の美の壷は七宝でした。
1週間前に親子で七宝焼きに参加してきたばかりだったので、放送を楽しみにしていました。

娘はもちろんのこと、私自身、七宝焼きを体験したのははじめてです。いつも学童保育でお世話になっている児童館の行事の一環で、参加は6〜7組の親子での少人数。子どもはブローチ(りんごまたはぶどう)、親の方はスプーンの飾り部分で、料金は材料費のみの252円。児童館の先生が教えてくださいました。
釉薬の色見本を見ながら仕上がりのデザインのスケッチを描いてスタート。次に銅板を洗浄材で洗ったあとに釉薬をのっけていくのですが、この案配加減が大変でした。出来上がると専用の機械で800℃で焼きます。焼き具合は先生がみてくださいました。熱を冷ました後にブローチはブラシを使って水でゴシゴシ。スプーンの方は際をヤスリでゴシゴシ。正味1時間半でしたがなかなか楽しいひとときでした。

七宝の釉薬はガラス質の原料に金属などで色を出したものだそうです。「赤い色は難しいのでなるべく違うのにしてくださいね〜」と先生がおっしゃっていました。赤い色は熱を通しやすいからなのかな〜?などと思っていましたが、番組で赤透(あかすけ)という透き通るルビーのような七宝が珍重されたと出ていて、「!」と思いました。もちろん教室などで使用されるふつうの赤とは違うと思いますが、赤透のその美しい色を出すには熟練した職人技を要して、とても難しいのだそうです。

刀の鍔などに用いた七宝は武士階級の没落とともに消えゆく運命だったところ、幕末尾張の国の一人の職人の手により蘇りました。そして明治に入って急速に発展していったそうです。19世紀後半の万国博覧会〜ジャポニスム〜アール・ヌーヴォーへつながるわけですね。ところが工芸品は美術品ではないということで、絵画などと比べて正当な評価を得られなかった・・・と、そこからまたびっくりするような技術・・金属線を残さない無線七宝が誕生したということです。

それにしても七宝で細密画やぼかしをやってしまうなんて信じられません。スプーンの飾りであたふたして抽象画になってしまったような自分には、ひれ伏すしかないようです(笑)。
285 はじめての七宝_d0009581_16445361.jpg




# by tsukinoha | 2006-11-25 16:46 | 子ども

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