たまゆらデザイン日記

カテゴリ:日本の伝統文化( 28 )




521 歌舞伎座さよなら公演 五月大歌舞伎

実家に行ったり、家のかたづけをしたり、新規の仕事のアイデア考えたりしているうちに、いつのまにか連休も今日でおしまい。

ここ数年出かけていたラ・フォルジュルネは目当てのチケットがとれずに挫折。
あの大混雑を思うと無料公演にいくのも気がひけて・・・。
そこで以前から取り壊される前にもう一度!・・・と、半月前にチケットを押さえ、かれこれ10年以上ぶりに歌舞伎座へ。殆ど自分の趣味ですが、“生きている錦絵”を今の歌舞伎座があるうちに娘にも見せて(経験させて)やりたいと思いまして。もちろん!?いちばん廉価な三階席です。

昼の部へ行くのははじめて。
銀座三越のデパ地下でお弁当を買って(歌舞伎座でもお弁当が買えます。食堂もあります)向います。

五月の昼の部の演目
一 歌舞伎十八番の内 暫(しばらく) 一幕
二 寿猩々(ことぶきしょうじょう)竹本連中
  手習子(てならいこ)長唄囃子連中
三 加賀鳶(かがとび)四幕六場
四 戻駕色相肩(もどりかごいろにあいかた)常磐津連中

目当ては市川海老蔵の「暫(しばらく)」でしたが、ひさびざの観劇のせいか、どれもこれもが新鮮に感じられ、最初から最後までたっぷりと江戸の娯楽に浸りました。
11時開演で、終わったのは4時過ぎ!(夜の部が4時半からなのに大丈夫なんでしょうか!?)
残念だったのは左側横の席だったので、花道が全然見えなかったこと。やはりこの差は大きかった。でもそのおかげで、花道側にいっせいに顔を傾けた1階席の観客席から小泉元総理を発見!お付きの人らしい男性を従えて、まるっきりのプライベートのご様子でした。

退屈するかな〜?と思っていた娘は、幕が開いて現れた鮮やかな舞台と邦楽の調べに驚き、「○○屋!」というかけ声に、な、何が起きたんだ!?と衝撃を受けたもよう。セリフはわからなくとも独特の所作に会場の人たちと一緒に笑ったり。終わってみると「えびぞうが良かった」とかいっちょ前のことを言ったり・・・。そう、確かに海老蔵は華がありました!
客席でお弁当やお菓子(アイスモナカやたいやきなんかも売ってます)も食べられるし。
三階席でも十分に楽しめますが「今度は花道が見える席で!」と、あの独特の雰囲気の会場を味わえるのもあと何カ月かと思うと、ふたたび足を運んでみたくなります。
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by tsukinoha | 2009-05-06 13:43 | 日本の伝統文化

436 お茶を愉しむ

だんらん時、録画しておいた「知るを楽しむ」の白川静氏の人物伝を流してみると、夫・子どもは結構興味深けに観ていました(しめしめ←洗脳!?)。4回目の最終回に放映されたもので、「漢字は国字」であるというテーマ。普通は国字というと、「峠」「裃」などの日本で作られた漢字のことを指すのだそうですが、白川さんはもっと広い意味に捉えていた。(実際国字の定義とは、国家を形成する言語社会で伝統的に通用している文字を指す、ということです)中国から来た漢字ではあるけれど、日本に入った時点から、漢字は日本の漢字に変化していった。それが白川さんがいちばん伝えたかったこと・・漢字に対する思いの根本ではないかと、案内役の松岡正剛さんはおっしゃっていました。
大陸から入ってきた漢字をそのまま使わずに訓読みすることを考えたこと、漢字からかなを発明したこと、真名(漢字)から仮名(ひらがな)への変遷というのは、書・能・茶・花・歌舞伎などの「真行草」への、日本文化を育む根底をつくったことなど、これまでも各所で松岡さん自身何度も披露されたことであろう考えの元が、白川さんにあったことがわかりました。さて、お茶も中国から入ってきたわけですが、「真」の飲み方が時代を経て千利休によって草庵の茶(侘茶)が大成されるということです。


この半年ばかり、お茶の入門教室に通っていた娘に、家でお茶をたててもらいました。薄茶平点前という入門者が最初に稽古する方式ですが、実は千利休が最後に到達した侘茶点前を基礎としているそうです。ふくささばき、茶せんの使い方など、なかなか堂にいってます。ただお菓子食べに行ってたわけではないことがわかりました(笑)。

d0009581_7181678.jpg茶碗は以前私がつくったものです。(右側の2点)
棗がないので湯のみに抹茶を入れてます。

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by tsukinoha | 2008-03-02 07:19 | 日本の伝統文化

421 橋口五葉の美人画

d0009581_21305634.jpg昨年の11月の渡辺章一郎氏の講演会で「年明けに新日曜美術館で橋口五葉を取り上げるそうです」と聞いていましたが、先日がその放送日でした。新日曜美術館で近代浮世絵を取り上げるのは過去(と言ってもここ数年のことですが)にあまり例がなく、珍しいことではないかと思います。
偶然にも昨年、静岡県立美術館で巡回中の大正シック展で、橋口五葉の「髪梳ける女」を観る機会がありました。木版画とは思えないほどのしなやかな髪の質感に驚嘆したことも記憶に新しいのですが、これが生前に残された7枚の美人画のうちのひとつであったと、番組で知りました。

夏目漱石や泉鏡花の装丁、三越のポスターを経て、五葉が辿り着いたのは、当時衰退の一途を辿っていた伝統の浮世絵版画。自ら論文も発表していた江戸浮世絵版画の復刻に携わることで、その技術を修得していくことになったそうですが、普通版木に桜の木を使用するところを、髪の生え際の細かさを強調するために、硬質の柘植の木を部分使用するなど(現在では辿り着けない技の域だとか)、なみなみ成らぬこだわりがあったそうです。加えて数千にも渡る女性の素描を1本の線に昇華させるという身を削るような製作。41歳で夭折した五葉の美の結晶となったのは、前述の通りたった7枚のみ。

「古風で日本の女性は五葉あたりで切れちゃっているのかもしれない。夢二(竹久)あたりだとちょっと違ってくる」番組に登場していたイラストレーターの宇野亞喜良さんが指摘する言葉が印象的でした。五葉の絵を通して“時代”をも考えさせられます。


d0009581_21311980.jpgさて、先の渡辺章一郎氏の講演会の記録が地元の小冊子『おとなりさん1月号』に掲載されていました。講演内容の詳細が6頁に渡る文章でまとめられています。
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by tsukinoha | 2008-01-15 21:33 | 日本の伝統文化

400 川瀬巴水、その作品の魅力と渡辺版画店に伝わる逸話

先日の日曜日、大田区立郷土博物館で開催中の川瀬巴水展の企画の、渡辺木版美術画舗の渡辺章一郎氏の講演会に出かけてきました。定員80名の会議室は立ち見がでるほど大盛況。平均年齢層は私よりも高いとみました。134点の画像を映写しながらの講演は約2時間近くにも及び、大変充実したものでした。すでに記憶が曖昧になってきている部分もありますが、わかる範囲で記録してみました。
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川瀬巴水、その作品の魅力と渡辺版画店に伝わる逸話
新版画と川瀬巴水の魅力

大田区立博物館 講演会
2007年11月18日
(株)渡辺木版美術画舗
代表取締役 渡辺章一郎

〈序〉
写真 川瀬巴水(26-27歳) 1910年(明治44年)頃
歌磨、写楽、北斎、広重

美人画、役者絵などで隆盛を極めた江戸浮世絵。しかし人物には“賞味期限”がある。対し、風景を主題とするものは多少時間が経っても変わらない。

〈末期の浮世絵〉
日本画に近い作品
揚州周延、山本昇雲、鏑木清方

〈浮世絵風 新作版画〉
日本画と浮世絵の中間のような作品
高橋松亭、小原祥邨
2年前、大田区立郷土博物館において、世界初の高橋松亭の展覧会が行なわれた。

〈初期の創作版画〉
江戸期の最高の技術をもった職人が多くいた時代。が、絵師がおらず、全体の作品としての魅力が生まれなかった時期。一方で自分で絵を描き、自分で彫り、摺るという創作版画が誕生。抽象画も出現(恩地孝四郎)。
山本鼎、戸張孤雁、恩地孝四郎

〈初期の創作版画〉
「版画」という言葉が定着しはじめた時代。(江戸時代では「錦絵」と呼んでいた)
カペラリー、橋口五葉、伊東深水、川瀬巴水、笠松紫浪、吉田博、・・豊国(人物)北斎・広重(風景)らの江戸時代の浮世絵作品と比較しながら
渡辺庄三郎(渡辺版画店を立ち上げる。章一郎氏の祖父)の声かけに最初に賛同したのは皮肉にも外国人だった。樋口五葉など後に独立して工房を持ち、彫り師摺り師を抱えるものが出てくる。樋口五葉は41歳の若さで夭折。伊東深水の『対鏡』のバックの紅色は20回くらいの摺りを重ねている。この頃、渡辺版画店から川瀬巴水のデビュー作『塩原おかね路』が。

〈関東大震災後の新版画〉
関東大震災での火災によって、貴重な資料や版木がすべて消失。それまでの「とにかくよいものを」の、採算度外視の製作は不可能となり、売れる版画を製作せざるを得なくなる。
川瀬巴水「東京十二景・芝増上寺、馬込の月」「東海道風景選集 日本橋(夜明)・・日本橋に高速が架かっていなかったらの引き合いによく出される。他、山本耕花、名取春仙、高橋弘明(松亭)、小原祥邨、伊東深水、笠松紫浪の作品。
写真 川瀬巴水 1939年(昭和14年)7月


〈昭和期の創作版画〉
恩地孝四郎『地下鉄』など、時代を反映させるモチーフも数々登場。
前川千帆、深沢策一、藤森静雄、藤牧義夫、小泉葵巳男、織田一麿

〈昭和初期の海外展覧会〉
写真 日本版画協会パリ展の会場 1934年(昭和9年)
写真 ポーランド大使を迎えての会食 1934年(昭和9年)

大変好評だったパリ展と、一席を設けた場には、渡辺庄三郎、巴水、深水らが。

〈渡辺版以外の巴水作品〉
写真 川瀬巴水親戚一同 1936年(昭和11年)
酒井川口版、東京尚美堂、土井版、芳寿堂版など。他に鳥居言人、伊東深水


〈第二次大戦後の作品〉
物資の不足で版木の質が悪い。巴水作品ではみやげ的なものが多くなる。
写真 深水宅でもミュラー夫妻 1940年(昭和15年)
写真 渡辺庄三郎創業50年祝賀会 1956年(昭和31年)
巴水「時雨の後(京都南禅寺)」「富士の雪晴」「春の宵(上野東照宮)」「愛子の月(宮城県)」など。伊東深水「楽屋」「髪」


〈現代の創作版画〉
斉藤清、畦地梅太郎、笹島喜平、関野準一郎、中山正、海野光弘、前田光一、池田壮豊、藤田不美夫、木村義治、渡部正弥、杉山元次、西田忠重、並木一、天野邦弘、為金義勝、船坂芳助
写真 渡辺家三代 1961年(昭和36年)頃


〈最後にもう一度巴水作品〉
巴水の代表作を見ながら。(余談もここに記します)
・「東京十二題 大根がし」は現在の京橋付近。市場があったところ。震災後に築地に移った。
・「東京十二ヶ月 三十間掘の雪」銀座の三原橋付近。雪が降り始めると巴水はスケッチブックを取り出して一心に風景を書き留めていく。その様子を傘をさしかけじっと見守っていた渡辺庄三郎。意外にも巴水の銀座作品は少なく、他に「歌舞伎座」があるくらい。
・巴水の代表作とも言われる「馬込の月」。90年代初頭の大田区立博物館での「川瀬巴水展」では、「「馬込の月」に描かれた民家に住んでいました」という方が現れたとか。
・「東京十二景 芝増上寺」は海賊版が出るほどの人気。
・東京の雪景色が多いが、昔は結構積雪があった。
・伊東深水とは公私ともに交友のあった巴水。深水の娘・朝丘雪路さんは酒を嗜まない父と違いいつも酒の香りを漂わせていた巴水に「タコのおじちゃん」と言って親しんでいた。後年「大先生に向かって失礼な事を・・」と回想されたそう。

江戸から明治に入った時に見向きをされなくなり、その技術の粋を誇りながらも空前の灯火になった浮世絵版画。現代において人気が復活する一方で、皮肉なことに職人が激減。幸いなことに渡辺木版美術画舗ではこの春に2名の摺り師希望者が入門。なんとかその技術を次世代に引き継ぎたいと思っている。(渡辺章一郎氏・談)
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by tsukinoha | 2007-11-23 07:13 | 日本の伝統文化

377 ドナルド・キーンと渡辺華山

今日は9月9日重陽、菊の節句です。
昨日、半年間行なわれる〈子ども伝統教室〉のお茶のおけいこ初日では、「五節句のうちのひとつですよ」と先生がお話をされながら、菊の練りきりが振舞われました。
重陽とは、中国で〈陽〉とされていた奇数が〈重〉なるという意味だそうです。菊酒を飲み(菊は薬用とされていた)、邪気をはらい長寿を願いました。他の節句(1月、3月、5月、7月、9月を合わせて五節句)と同じように日本に伝わり、平安時代・宮中の儀式から江戸時代・武家社会の行事へと伝わりました。



さて先週の「新日曜美術館」は「この人が語る私の愛する画家」で、ドナルド・キーン氏が渡辺華山を紹介していました。ちょっと記憶を頼りに残しておきたいと思います。(よって実際の言動と異なる箇所があるかもしれませんので、あしからず)

渡辺華山といえば国宝「鶴見泉石像」(BRUTUS 2007年9月15号/104頁)という肖像画を見たことがある・・・くらいの認識でしたが、家計を助けるために得意の絵で身を立てたこと、遠近や陰影などの手法を取り入れ、従来の日本の画にない肖像に挑戦し続けていた武士、と、はじめて知りました。そんな華山に、戦前から日本文学という未開の山野に踏み入ったキーン氏は、自らを重ねていらした。『渡辺華山』という著作も発表されています。ふと〈プライス氏と伊藤若冲〉の関係に近いように思いました。
故郷アメリカの古書店で安く手にいれた『源氏物語』が日本文学研究のきっかけになったとキーン氏。戦争中当時、この物語りの美しさに感銘。『源氏物語』も「死」はあるが、物語であるはかなさという美学が描かれている。戦争は理不尽な「死」でしかない。


約1ヵ月ほど前、読売新聞に昨年連載されていた『私と20世紀のクロニル』(中央公論社)の単行本化に合わせて、新聞にキーン氏の記事が2回に渡って掲載されていました。自伝的な作品『日本との出会い』でも、日本人の遺留品にあった日記を翻訳し感動したという逸話がありますが、戦場で必死で日本語を学んだというキーン氏は、日本文学の伝道師という任務があるのだとという思いで生きてきたと言います。
戦前戦後と言葉遣いも、旧仮名と新かなの違いも明らかに違っていたこと。横書きの日本語が苦手で、理解するのに倍かかるなど、日本人である私たちのほうが教えられることが沢山あると思いました。
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by tsukinoha | 2007-09-09 06:13 | 日本の伝統文化

359 若冲の花丸図

台風が近づいているのもさることながら、娘が首にコルセット巻いている状態なので、しばらく外出もお預け。怪我は学校の休み時間に逆上がりの練習していたのが原因。一昨日帰宅後の「痛い」(すでに学校で「痛い」と報告していたらしい)が昨日も続いていたので、朝遅刻させて、とりあえずと気軽な気持ちで夫が病院に連れて行くのですが、レントゲン撮ったら首の骨の咬みあわせがずれている・・・ということでちょこっと慌てました。幸い、ふつうの生活には支障がないということでそのまま学校へ。児童館の先生へは予め電話して事情を説明して学童もいつも通り行かせることに。昨日はしめきり(製版入稿のための修正やらデータ作成)もあったのでどきどきしながら仕事していました。帰宅後は担任の先生から電話がありあれこれ状況のすり合わせ。



東京芸術大学美術館で開催中の「金比羅宮 書院の美」も、しばらくおあずけなので、若冲の花丸図についての思い出話で訪問までの間の序章を楽しみたいと思います。


家に「若冲の花丸図」のうち蓮の花の色校正がおさまった額縁があります。
それは私が20代半ばだった頃のこと。ひとり住まいの恐ろしく殺風景な土壁のアパート。インテリアのことを考える余裕もなかったままでしたが、思い出したように大事にしまっていたままの若冲の蓮花の色校正を取り出します。そしておさまりのよいサイズの額縁を求めて、飾ってみたのです。それは小さな浄土の空間が出現したようでした(ちなみに当時若冲についての私の理解は、青物問屋のボンボンだった、くらいしかなかった)。それから2回転居して、少し色褪せてしまった蓮花ですが、捨てられずに残っています。


印刷所から色校正の入った封を開けると表紙用の若冲の蓮の花がふわっと出てきた・・・その光景が今でも目に焼き付いています。それは「蓮」をテーマにしたある美術系の日記帳でした。「フィルム通りにではなく、描かれた当時の色調を再現するつもりで色は鮮やかに出してください」というのが大先輩のアートディレクターの製版指示でしたが、1回目の校正が色調が鮮やかすぎて軽めになってしまったので、2回目少し緑を落ち着かせた色合いで仕上がってきました。蓮花の白も引き立ってとてもいい感じに。ふつう色校正は用を終えるとさっさと捨てられてしまいます。がそんなこと(捨てる)できるわけない!と、すかさず嬉々として持ち帰ったのでした。今から18年前のことです。


当時の職場の本棚にあった「若冲の花丸図」の赤い布地の豪華本(おそらく今はなき、京都書院)には、たくさんの種の花々が描かれていました。それが高校生の時修学旅行で立ち寄った金比羅さんにあるなんて!とも。

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というわけで伊藤若冲との記念すべき最初の出会い・・・私の場合は「花丸図」なのでした。
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by tsukinoha | 2007-07-14 06:48 | 日本の伝統文化

289 ひらがなと漢字

「かんじは さいしょは かんたんな えのようなものでした。」
2学期になって漢字の勉強がはじまり、毎日少しずつ増えてきているようですが、1年生のこくごは、まずは「ひらがな」を正しく読み書きできることからのスタートでした。
ひらがなを誰が考案したのかについては依然謎だそうですが(空海説もありましたが)いつ公式に使用されるようになったのかは明確と言う事です。延喜5(905)年4月18日。ひらがなで書かれた公文書、古今和歌集完成。

   以→い
   呂→ろ
   波→は

というように、漢字が変化してひらがなが考案される以前は、万葉がなと言って漢字を日本の言葉に合わせて使用するということが行われていました。

   夜久毛多都→やくもたつ(八雲立つ)

現代の私たちが見るととっても変ですね。


以下、先日放送の「その時歴史が動いた」ひらがな革命〜国風文化を生んだ古今和歌集〜を元に、ひらがな誕生の裏にあったいきさつを大雑把に記録をしておきたいと思います。

当時、ひらがなは主に和歌に使用されていましたが、それはあくまでもプライベートなものとされ、公式の文書はすべて漢語で書かれていました。すべてのやり方を中国を手本にしていたのです。律令制の崩壊の危機、破綻寸前の国家財政に、抜本的な政治の改革が求められていた平安時代中期。当時官僚のトップだった菅原道真は、衰退しつつある唐を頼らずに日本独自の改革が必要と考えます。漢詩・漢文に熟達していた道真は、当然のごとく「かな」に何ら価値を認めていなかった。しかし律令制(唐のやり方)を無視するような政策は強引に写り、官僚たちの反感をかいます。そしてライバル藤原時平の攻略で突然の左遷。一方の時平は、幼少より藤原家の女たちのたしなみであった「かな」に親しんできた。国を変えていくには、まず官僚たちの漢文崇拝の意識を改革しなければならない。そこで「かな」に着目。紀貫之らに編纂を命じ、ひらがなを公式のものとするのでした。


   やまとうたは 人の心を種として よろずの言の葉とぞなれりける

古今和歌集の冒頭はこのようにはじまっています。漢字文化に対するかな文化の宣言と見てとれます。かなが公に認められたということで、以後、『源氏物語り』『枕草子』、寝殿造り、十二単・・・などの国風文化が花ひらきました。

そこからおよそ300年、鎌倉時代の随筆『方丈記』の頃には和漢混淆文が確立されます。漢字とかなが混じりあうことで、日本語はいっそう豊かな表現を獲得していきました。「漢」の道真、「かな」の時平、生前袂を分かった2人のライバルが日本語という言葉の中で永遠に手をたずさえるようになったのです。
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by tsukinoha | 2006-12-02 15:54 | 日本の伝統文化

284 古代から来た未来人 折口信夫

NHK教育の「知るを楽しむ」。
月曜夜の辻信雄先生の「ギョッとする江戸の絵画」もいよいよクライマックスですが、ひそかに楽しみにしている火曜日の中沢新一が語る折口信夫も来週が最終回。
後にわかったことなのですが、折口が晩年を過ごした東京・大井の出石(いづるいし/現・西大井3丁目付近)地区は、私が最初にひとり暮らしをはじめた場所でした。そんな単純な理由でずっと折口信夫が気になっていたのですが、とにかくよい機会の訪れでした。

d0009581_6571782.jpgテキストの三波晴夫との取り合わせがなんとも妙です。
4週間で終了する講座なので一緒になっています。
(三波晴夫のテキストもなかなか興味深い)

第1回 「古代人」の心を知る
第2回 「まれびと」の発見
第3回 芸能史という宝物庫
第4回 未来で待つ人



(前略)ことばは思考の源泉であり、母国語の深みで私たちは思考を越えた存在の根にふれることができる。折口信夫の思考と文章をとおして、日本語というローカルなことばの全能力は開かれ、思考のことばが根になまなましいほどの感触をもってすれる奇跡が実現されている。(中略)柳田国男、折口信夫、南方熊楠の三人の巨人の頭脳と心が生み出したものは、日本人に残されたもっとも貴重な宝物である。私はこの宝物をしっかりと護り未来に伝える水の中の龍でありたいと願う。(私のこだわり宣言・奇跡のような学問/中沢新一より抜粋)


さて、テキストだけでも十分に読みごたえがありますが、やはり映像で訴えてくるものはまたひと味違っていて、中沢新一の話に吸い込まれるようにして世界に浸っており、また、びっくりするような“発見”をさせてもらっています。その体現はこれまで謎につつまれていたこころの中にあるいにしえ(根源の部分)がつつかれて、次々に解き明かされていくような気分です。そういった意味でひとことでまとめるのが難しい!

ところで、折口は師の柳田国男の考え方をいつも尊重していた一方、柳田は折口の「まれびと」の考え方に批判的だったそうです。二人の“神”に対する考え方が違っていたからということです。共同体の同質性や一体感を支えるものこそが神・・・先祖の霊こそがそれにふさわしいとした柳田に対し、折口が考えた「古代人」の“神”とは、共同体の「外」からやってきて、なにか強烈に異質な体験をもたらす精霊の活動であると考えた。さらに言うとそれは“神”以前のもので、上から降りてくるものではなく、水平にやってくるもの。「あの世」と「この夜」をつなぐ精霊の働き、これが「まれびと」のイメージへと結びついていった。折口の考えたこの「古代人」とは古代国家以前のとてつもなく古い心の働きのことを指す。文字の記録がはじまった奈良朝の時代にはすでに「古代人」のこころは理解されなくなっていた・・・と言うのです。

折口は夏至と冬至の祭りに注目しました。そして「ふゆ」ということばは、「ふえる」「ふやす」をあらわす古代語の生き残りと考えたのです。夏の盆では霊を客人として迎えるのに対して、冬は精霊の増殖と蓄えがおこなわれた。「花祭」「冬祭」・・・男鹿の「なまはげ」なんかもそうなのかもしれません。そんなことを思ったりしていると、祭がまったく違って見えてくるようです。
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by tsukinoha | 2006-11-23 07:00 | 日本の伝統文化

265 ギョッとする江戸の絵画

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「ギョッとする江戸の絵画」というエグいタイトルですが、曾我簫白の「群仙図屏風」の表紙絵。10月からスタートするNHK知るを楽しむの辻惟雄先生のテキストです。こちらで情報をいただきました。簫白のインパクト、はたまた簫白と言えばコレに勝るものはないんでしょうね。昨年の芸術新潮の表紙も然り。
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私が簫白の実物とはじめて対面したのは、1997年板橋区立美術館の「奇想天外江戸絵画展」です。このとき「群仙図屏風」がありました。(手元に図録・・公費で購入していたので・・もなにも残っていないので断定的に語るのが少しばかりためらわれます)板橋区立美術館は小さいながらもユニークな視点の展覧会が多く、ひそかに贔屓にしています。交通の便さえよければ通いたい美術館のひとつ。

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それから約1年後、千葉市美術館(1998年3/24〜5/5)で曾我簫白展がありました。辻惟雄先生が美術館の館長をしておられた頃のことです。

眼球が飛び出るような驚きを体験したい方は是非「曾我簫白展」へ!などというのはすこしオーヴァかもしれませんが、江戸時代にもこんな元気のいい破天荒な画家がいたことをお知らせしたくて、この展覧会を企画しました。(美術館ニュースの辻先生の言葉)

「群仙図屏風」と2度目の対面でした。図録(上記画像)も美術館ニュース(下記画像)も「群仙図屏風」です。まったくなんちゅー絵なのでしょうか。
しかし私が簫白の魅力にはまったのは、この絵に代表されるエログロテスクなかたちと色彩そのものでなく、対象的な「商山四晧図屏風」のような、一気に描き切ったような大胆な山水のもうひとりの簫白の顔と言うべき発見でした。(「商山四晧図屏風」・・右隻は樹下の4人の隠者、左隻にはいまにもつぶれそうなロバ(馬?)にまたがった隠者の後姿。ユーモラスで哀愁漂う画風。特に左隻の絵が好きです)対照的なこのふたつの屏風絵を前に「なんて(この人は)自由なんだ!」と気持ちが高ぶりました。「もしかして私(たち)は江戸時代という時代を、とんでもなく勘違いしているのではないだろうか?」とひそかに心に思ったものです。最近ではそれが確信に近づいていますが・・・いや、おそらく前世、私は江戸時代にいたのかもしれません(ああ、妄想癖・・・)。
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「簫白はいかにして忘れられたか」ということで、千葉市美術館ニュースの展覧会の紹介に美術史家の佐藤康宏氏の3頁に渡る随筆が掲載されています。それによると、おそくとも1890(明治23)年代に発表された美術専門誌『国華』4号の解説であろうとの指摘で、次のような記述の紹介があります。
「簫白のような画家が日本の美術史に上に再び出現するのはけっして好ましいことではない」


「みんな知らないみたいだけど、江戸時代にはこんなおもしろい絵があるんだよ」とでも言うように、若かりし辻先生が執筆された『奇想の系譜』(1969年)。簫白のほか伊藤若冲、長澤芦雪など、当時の概念からすると一線から外れた絵師たちを取り上げるという、おそらくは超マニアックな著作。その視点が30数年かけてじわじわと“世間”へ浸透してゆきました(画像は2004年文庫版で表紙は曾我簫白「雲龍図襖」)
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およそ100年近くにわたって植え付けられた簫白らへの偏見を拭うにあたって、辻先生が果たした役割は大きかった。と、後世(すでに現在)語り継がれるのでしょう。

というわけで、10月スタートの「ギョッとする江戸の絵画」シリーズを楽しみにしています。
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by tsukinoha | 2006-09-28 22:22 | 日本の伝統文化

257 秋の野に咲きたる花

旧暦の秋は今でいうと7〜9月あたり。

秋の七草は、万葉集で山上憶良が秋草を詠んだときに選定されたものです。

秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数ふれば 七種(ななくさ)の花
萩の花 尾花(をばな) 葛花(くずはな) なでしこの花 をみなへし また藤袴(ふぢはかま)  朝顔の花



さて、春を代表する花が桜だとすると、秋は野に咲く秋草。
読んで字のごとく秋に花をつける草の総称。
花木(かぼく)に対する草花。

昨年、復元を終えた国宝源氏物語絵巻。
五島美術館所蔵の御法(みのり)の場面の庭先には、くっきりと秋草の姿が現れました。
命のはかなさを庭の萩についた露にたとえている場面です。
王朝文化で愛でられた秋草。ススキなどの秋草の生えるところは、田畑などの人の手が加わらない荒れ地。
その荒れ地に生える草花を愛でるという感覚は、日本人特有のものだと聞きました。
爛熟を迎えた後の退廃は、もののあわれという美意識につながるようです。


桃山ルネサンスで、秋草の意匠は蘇ります。
光悦、宗達、光琳、抱一ら、江戸琳派が描く秋草は、源氏物語や伊勢物語などの意匠に出現し、あるいは自然の光景を描いた秋草図になります。秋草の茂みの中に月が埋もれているようなダイナミックな武蔵野図は、狂言の装束のモチーフにも見られます。

光琳図案から。
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by tsukinoha | 2006-09-12 22:34 | 日本の伝統文化

日々のよろずデザイン観
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